Thursday, May 10, 2012

河北新報: 追い込まれた命-福島第1原発事故(中)(下)

先日の(上)に続き、河北新報は更に2つのご家族の体験を記事にしています。以下、リンクと抜粋。

2012年5月10日記事: 酪農の道断たれ無念

牛舎の壁のベニヤ板は普段、飼育作業の備忘録代わりに使っていた。チョークで牛の状態や出産予定日を書き留める。
昨年6月10日。板は遺書になった。
「姉ちゃんには長い間おせわになりました 私の現界をこしました 6/10 pm1.30 大工さんに保険金で支払って下さい」
姉(59)へのお礼で始まる。限界の「限」の字を誤って書いたのに気付き、その上に線をぐしゃぐしゃと書いている。自分を捨て石にして得る生命保険金で工賃の未払いを帳消しにしようとしている。
「原発さえなければと思います 残った酪農家は原発にまけないで頑張って下さい 先立つ不幸を 仕事をする気力をなくしました」
一番後の文は線で四角く囲まれている。精根尽き果てた心情を強調したかったのだろうか。
「ごめんなさい なにもできない父親でした 仏様の両親にももうしわけございません」
遺書は妻子と亡き親へのおわびで結んでいる。
この遺書を書いたのは、相馬市玉野の酪農家の男性。堆肥小屋で首をつった。54歳だった。

50頭の乳牛を飼っていた。福島第1原発事故直後の昨年3月20日、福島県内の牛の乳から基準値を超す放射性セシウムが出て、全域で原乳が出荷停止になった。
牛は健康を保つために毎日搾乳しなければならない。出荷の見込みのない乳を搾り、捨てた。牧場そばの小川は白く染まった。
そのころ、相馬市の避難所に身を寄せていた姉を訪ねている。
「牛乳は捨てるしかないが、餌は与えなければならない。牛が一度痩せたら元に戻すのに5年も10年もかかる。そうなったら殺すのと同然だ」
そう言い残して牧場に戻った。それが姉との最後の対面だった。
飼育費は月約100万円。手元の金は底を突いた。

8月、県内の酪農家が賠償の対象になることが決まった。男性が亡くなって2カ月がたっていた。

2012年5月11日記事: 夫、日に日に気力喪失

昨年7月23日。福島県浪江町の無職男性=当時(67)=が同県飯舘村の真野ダムの橋から身を投げた。
福島第1原発事故で浪江町が避難区域に指定され、3カ月前から二本松市のアパートに避難していた。
夫は車で出た。日が落ちても戻らず、警察に届けた。遺体は翌朝に見つかった。橋の30メートル下の草地に横たわっていた。
そばにあった車のガソリンは底を突いていた。満タンだったはずだ。二本松市からダムまで直線で約40キロ。空になるには近すぎる。
「夫は死に場所を探してさまよったと思う」

元原発労働者。2010年まで福島第2原発で働いた。言葉には出さなかったが、原発の安全神話が崩れたことにショックを受けたようだった。

二本松市には夫妻と夫の母(89)、次男の4人で越した。母は認知症だった。徘徊(はいかい)を繰り返し、警察に2度保護された。夫はそのたびに振り回された。
「いつになったら帰れるんだか」
将来をはかなむ言葉を口にするようになった。
「なるようにしかならないよ」
「んだなぁ」
相づちを打ってもどこか上の空だった。
夫は体調を崩し、眠りが浅くなった。食が細り、好物の白身魚も残した。口数も減った。7月に入ると日課の散歩もしなくなり、一日中家の中で横になっていた。

遺体は南相馬市の葬儀場で密葬した。写真は自宅にしかなく、運転免許証の写真を引き伸ばして遺影にした。祭壇には夫が一時帰宅で取ってきた釣りざおをまつった。
12月、東京電力に夫の死亡補償を請求した。所定の書類に「原発事故のせいで命を落とした」と書いた。東電から連絡が来たのは2カ月後。自殺の経緯を教えてほしいと言われた。それ以降、連絡は途絶えている。
「ここまで人を苦しめておきながら誠意がない。こっちが勝手に死んだみたいな扱いだ」
人ごとのような対応に怒りが収まらない。


国の高級官僚と同じ言葉遣いをする東電の新しい社長さんの下での特別ビジネス計画の柱の一つが、親身親切な賠償対応だそうです。

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